日本の再生に向けて

戦後教育の洗脳から脱却する為に、近現代史を学ぼう

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中共が仕掛ける歴史認識戦争に克つ   第1回

中共が仕掛ける歴史認識戦争に克つ         

     第一回:日中共同声明歴史観 

 今年は沖縄が返還され、中華人民共和国と国交を結ぶ意向を表明した「日中共同声明」が発表されてからも四十年を経た節目の年であった。
その共同声明が目指した「日中友好の発展」 は、外務省が毎年行っている中華人民共和国(中国 注1)への親近感世論調査 に見られる様に、四十年程前に較べて今では反転して七割以上の人が中国に対して親しみを感じない-嫌いになるとんだ発展となってしまった。
 その原因は共同声明が持つ歴史観にあった。
今尖閣の領有権を主張す
中国はその根拠に歴史論争を仕掛けているが、仕掛ける口実を与えたのも又共同声明に盛られた歴史観である。


 共同声明は「友好」(注2)を基に「相互の尊重・不干渉」、「平等・互恵」、「平和共存」等の綺麗毎を並べ乍ら、実は日本は侵略国で残虐な国で中国は日本に対して戦勝国であるとする歴史観で出来ていた。だから友好でなく敵対的関係を生み出した訳だが、この歴史観中国によって大胆にも巧妙且つ強引に埋め込まれた。

 その埋め込みは、田中角栄首相・大平正芳外務大臣他一行が北京に到着した日の周恩来首相の歓迎晩餐会から始まった。
周恩来は開宴の挨拶で、二千年に亘る友好的な文化交流の歴史があった両国が、「一八九四年から半世紀にわたる日本軍国主義者の中国侵略によって中国人民は極めてひどい災難をこうむり、日本人民も大きな損害をうけました。」(傍点加筆)と述べて、日本は日清戦争から五十年間も侵略したと断じた。

 対して田中は、「過去数十年の不幸な経過と多大な迷惑をおかけした」と詫び、「第二次大戦後においても,なお不正常かつ不自然な状態が続いた」と応じた。田中が言った「数十年」とは精々三十五年前の盧溝橋事件辺りからの「不幸な経過」を指しているのだろうが、周恩来が言った八十年近く前の日清戦争ではないし、「多大な迷惑」も「侵略」とは違うし、不正常な状態を戦後からとした辺りまでは未だ真面な歴史観であったが、出来た共同声明は周恩来の歴史観一色になった。

 共同声明が持つ歴史観は次の三つの項にある:
第一項「日本国と中華人民共和国との間のこれまでの不正常な状態は、この共同声明が発出
  される日に終了する。」
第三項「中華人民共和国政府は、台湾が中華人民共和国の領土の不可分の一部であることを
  重ねて表明する。
  日本国政府は、この中華人民共和国政府の立場を十分理解し、尊重し、ポツダム宣言
  第八項に基づく立場を堅持する。」
第五項「中華人民共和国政府は、日中両国国民の友好のために、日本国に対する戦争賠償の
  請求を放棄することを宣言する。」

 第一項には「戦争」の文言は入らなかったが、「これまでの不正常な状態」が開始時期を明示せずに終了の日を「共同声明の発出される日」、つまり一九七二年九月まで続いたとした。
「不正常な状態」は「戦争」ではないが、中国は第五項で「戦争賠償」を恩着せがましくも「放棄する」と入れた。賠償請求により交渉が暗礁に乗り上げる事を恐れていた一行はホッとした 。しかし第一項と五項とを併せて読むと、日本は中国と戦争をして賠償をする側‐敗戦国になってしまった。
第三項は一見台湾の帰属に関する項目だが、もっと重大な意味を持っていた。中国は二十六日の外相会談で台湾を自国領土とする根拠にカイロ宣言を持ち出した。

 会談に出席した高島外務省条約局長は:
「台湾問題に関する日本政府の立場については、この機会にこれを要約すれば次のとおりである。サンフランシスコ講和条約によつて、台湾に対するすべての権利を放棄したわが国は、台湾の現在の法的地位に関して独自の認定を下す立場にない。」と、サンフランシスコ講和条約を根拠に日本の立場を説明して中国の提案を突っぱねたのに対し、周恩来は高島を「法匪」と貶し、一説には高島の退去命令を出したと言われる程に怒った。ここが交渉の山場であった。「法匪」発言の真偽が取沙汰されているが、田中大平はそれ以降の交渉の席から高島を外して周恩来に迎合した。中国はこの様に強引であった。

 日本は何を勘違いしたのか代わりにポツダム宣言を提案した。
姫外相に「どうして、中国側案のカイロ宣言ではなく、ポツダム宣言の立場を堅持するとしたのか。」と真意を質された大平は、「日本が受諾したのは、カイロ宣言ではなく、ポツダム宣言だからである。」(注3)と答えた。これではポツダム宣言を進んで受けたも同然である。
ポツダム宣言第八条には、「カイロ宣言の条項は履行される」と記されているから、台湾の帰属だけでなく、「カイロ宣言の全条項の履行を約束した」、と中国に付け入る隙を与えた。
カイロ宣言は元々出自が怪しい上に、日本を「野蛮な国家」と呼び、「日本国が清国人より盗取したる一切の地域」、「日本国は、また、暴力及び強慾により日本国が略取した他のすべての地域から駆逐される」等と、日本を罵る言葉が書き連ねてある(注4)。周恩来の歓迎晩餐会での挨拶はこのカイロ宣言を下敷きにしていた。

 こうして、奇しくも直前に復帰した沖縄の地位をも否定しかねない、カイロ・ポツダム両宣言を元にした次の様な歴史観を持った共同声明が生まれた:
「日本は支那に対し一八九四年の清の時代から一九七二年まで侵略を行った野蛮な国家であり、その為に支那は多大な被害を受けた。その罰として日本の領土は本州、北海道、九州及四国並びに我等が決定する諸小島に局限され、また第一次世界大戦以降に繰り入れられた(樺太等の)領土は剥奪され、満州、台湾及び澎湖島のような日本国が清国人から盗取した一切の地域は、中国-中華人民共和国に返還される。戦勝国の中国は寛大にも賠償を放棄する。日本はその立場を十分に理解し、尊重し、その立場を堅持して両国は友好を保つ。」

ではこの歴史観は正しいのであろうか。次回にその検証結果を書きたい。

注1 「中国」の名称は、中華人民共和国に限定する。文化・歴史を継承する地域としては「支那(しな)」を使う事で「中国」が持つ曖昧さを避ける。
注2 共同声明で中国が使う「友好」は日本語の友好とは違うので「」付きにして区別する。
注3 外務省日中共同声明関係公開文書の議事録より引用
注4 昭和47年当時でもこのカイロ宣言の有効性を疑う説は存在した。


                                     平成二十四年十一月 細谷 清

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中共が仕掛ける歴史認識戦争に克つ   第2回

中共が仕掛ける歴史認識戦争に克つ

                                          
     第二回:虚構で出来た共同声明の歴史観 

 日中共同声明には、「中国は日本に対して戦勝国で、日本は侵略した野蛮な敗戦国」とする歴史観が埋め込まれていたが、この歴史観は虚構で出来ている。昭和47年当時ではこんな嘘の歴史観に我々は疑問も批判も挟まなかった。

 この歴史観は幾つもの虚構で出来ている。
先ず、中国が日本と戦争をしたとする虚構である。支那における戦闘状態は一九四五年八月を以て終了し、中国はその後の一九四九年十月に中国は建国された。
戦争(戦闘状態)をした清とは下関条約で、中華民国とは日華平和条約で決着済みとするのは理がある。

 次に、一九四五年九月の降伏文書でその役割を終えたカイロ・ポツダム両宣言を生き返えらせて中国と関係づけ、講和条約を無視した虚構だ。ポツダム宣言は敵対する連合国が日本に対して降伏を求めた最後通牒で、原爆までも使って受諾を強要した曰く因縁付きの宣言で、日本は民族生き残りと敗戦後の「耐え難きを耐え忍ぶ」覚悟で、不承不承受けた。
降伏調印文書にポツダム宣言はあるが、後述するが米国は両宣言を否定する政策にその後は転換したから講和条約にも日華平和条約にも両宣言は一言もなかった。

 そして、最後はカイロ宣言に書かれた「侵略国日本」、「野蛮な日本」の嘘である。
この四十年間に、侵略については日清戦争からの「五十年戦争論」、「盧溝橋事件日本軍仕掛け説」が出され、「野蛮-残虐」については「南京虐殺」等が次々と出来した。その為に研究が進んで詳しくはそれぞれの成果に譲るが、「日本の侵略と残虐」を否定する研究結果であった。

中国が求めた「友好」とは、この虚構と嘘で出来た歴史観を日本が認める事であった。「友好」に努めれば努める程にお互いが嫌悪した原因はここに有った。
詰り我々は、最初から論理的に破綻した「日中友好」を無駄に四十年間も続けたのであり、最近の世論調査は単にその論理的帰結を示しただけである。

 田中大平は、こんな歴史観-それは後述するが日本の近現代史を改竄する歴史観-を認めて署名したのだろうか。否、正しい歴史観を持ってなかったから出来たとしか思えない。
田中は帰国直後の記者会見で共同声明を、「お互いに内政不干渉、侵略しない、主権独立等を金科玉条として、世界平和のため、アジアの平和のため、両国の友好親善を続ける事を大前提とした。」と既に日本の歴史が侵されているのに自賛した。一記者に「それでは安保条約極東条項は不要であろう」と突っ込まれて言葉に窮し、「安保の台湾条項を学問的に論文で書くなら別だが、日中間の話し合いがある、そうでなければ共同声明は出来なかった。」と、共同声明に理はないが情‐友好で出来たと、歴史観を持たずに情だけで外交交渉をした田中らしい発言をした。

 一方の大平は、帰国直後の新聞紙上座談会でポツダム宣言の発案者を問われて、「日本とか中国とかはっきりした形で追及しないでほしい。双方が合意したという事で察してほしい。(しばらくしてから)日本側の提案で入ったものだ。」と答えた(注5)。「日本側から提案した」事にして、元々は中国が言い出し大平が「積極的」に応えた事を交渉後に隠したのは、裏を返せば交渉時に歴史を軽視した事の証しである。
当時でもこの史観を疑う人達がいた。交渉の最前線にいた外務省の大勢は高島条約局長の理であったし、国際法学者であった田村幸策教授は、ポツダム宣言と講和条約の関係から共同声明の正当性に疑義を投じた。
他にも居ただろうが、こんな歴史観を持った共同声明に乾杯した田中大平に、多くのマスメディアと大学等の歴史観形成機関の専門家は、苦言でなく賞賛した。

 当時の世相は、中国との国交樹立に「乗り遅れる」と浮き足立ち、取分け経済界の重鎮は「北京詣で」を競った。彼らの本音は「金儲けに乗り遅れるな」であり、金に取分け執心した田中が首相としてそこに居た。
三島由紀夫は共同声明から遡る事二年前に当時の世相を、「無機質な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、或る経済大国が極東の一角に残るのであろう。それでもいいと思っている人たちと、私は口をきく気にもなれない。」と評して、金(かね)一辺倒の行末を案じたが、共同声明で見せた姿が正にそのものであった。

 歴史観を持たず或いは間違った歴史観で日中共同声明は作られた。では終戦・敗戦から日本が再び独り立ち出来る講和に至った戦後史はどのような歩みであったのだろうか。次回第3回で論じる。

注5 読売新聞昭和47年10月1日14版、対談相手は当時国際法の第一人者と言われた寺沢一東大教授

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中共が仕掛ける歴史認識戦争に克つ   第3回

中共が仕掛ける歴史認識戦争に克つ

                                          
    第三回:サンフランシスコ講和条約に至った途 

 日中共同声明はまるでパンドラの箱を開けたかの様に、その後は1894年の日清戦争からを日本の侵略とした「50年侵略戦争論」、「南京虐殺」、「従軍慰安婦」、「三光作戦」、「731部隊生体実験」等の偽歴史が飛び出し「日本の侵略と残虐」を歴史認識させようとする中国の工作は猖獗を極めた。
その為にこの四十年間で「侵略」と「残虐」は研究され論破されたが、ポツダム宣言と講和条約の関係については、「占領」を忌避した所為か等閑にされた感がある。
敗戦から講和に至った途を平坦な一本道と誤解している人もいるが、そうではない。


 日本の近現代史は、アジア各国が植民地化される中で近代国家として国際社会に出て、生存の為に大国ロシアと清と戦争までして闘い、加えて共産主義と闘った歴史である。その共産主義国ソ連と同盟関係を結び共産主義との共存を図った蒋介石中華民国と、親ソ連・容共・排日政策の米国フランクリン・D・ルーズベルト大統領(注6)によって、戦争に追い込まれ、そして敗れた。

 近衛文麿は終戦直前に「国体護持の建前より最も憂ふべきは敗戰よりも敗戰に伴ふて起ることあるべき共産革命に御候」(注7)と述べたが、当時の指導者は敗戦による共産革命を最も恐れた。近衛が看破した通りに、終戦後はその共産革命‐「赤化」(共産化運動とそれへの同調)が満州から朝鮮半島を経て日本を襲い、一方は支那からインドシナを経てインドネシアにまで達した。
 日本軍が撤退した後の満州と日本国境にはソ連が侵攻して、満州では中共を援助し朝鮮半島では亡命政権を立てて、それぞれ共産主義国家の中国と北朝鮮を生んだ。対照的に中華民国蒋介石政府は、ソ連と不可侵条約を結んでいたにも拘わらず玉突きで台湾に追われた。
ソ連は日本との不可侵条約も終戦宣言もそして米国の警告も無視して、樺太、北方四島に侵攻して北海道の目と鼻の先まで迫り、日本本土の占領までを米国に要求した。国内は、占領軍が獄中の共産党員を釈放し活動を許したので「赤化」は俄然活発になった。

 スターリンと協力して戦後体制を構想していたルーズベルトは、ヤルタ会談から僅か二か月後-ドイツ降伏前の四月十二日に亡くなった。彼の死と後継者がヘンリー・A・ウォレスでなくハリー・S・トルーマンであった事は、ソ連以外の国‐特に日本にとり不幸中の幸いであった。
ウォレスは第三期ルーズベルト大統領の下で副大統領を務め、トルーマンと副大統領候補指名を争って敗れた人だ。トルーマンと組んだルーズベルトは、選挙戦に勝って亡くなる三か月前に四期目の大統領に就任したばかりで、任期を丸四年近くも残していた。
 最近判明したのは、ウォレスが米国でのソ連の諜報活動を暴いたヴェノナ文書に頻繁に登場する限りなく「赤化された」人(注8)で、日本にとっては最悪の副大統領候補者であった事だ。
もしもルーズベルトが延命し或いはウォレスが副大統領であったならば、日本は分断か共産主義国家であったろうし、今の繁栄が無かった。
ルーズベルトの死で彼の大統領就任(一九三三年)から続いたソ連との蜜月は終焉を迎えた。

 蜜月後の修羅場は先ず欧州で現れた。
ヤルタ協定直後からさえソ連は、ポーランド・フィンランド・ルーマニア・ブルガリア等の占領国で協定違反を繰り返して占領国に親ソ連的な政権樹立を図った。ルーズベルトはそんな時に亡くなった。
ドイツが五月六日に降伏し、国際連合の設立が六月二十六日に決まり、ポツダム宣言が七月二十六日に出された辺りまでは、蜜月期に既定の路線であった。米国がソ連の協定違反を当初は誤解が原因と考えて手を拱いている間に、ソ連は「赤化」を浸透させた。
二十一年三月五日のチャーチルの「鉄のカーテン」演説で関係悪化は公然となったが、始まりはこの様にずっと前のヤルタ協定直後からだ。
 二十二年三月にはトルーマンがソ連との協調路線の決別を議会で宣言し、五月には米国がドイツ復興を柱とした欧州復興計画(マーシャルプラン)を立ち上げた事で、悪化は決定的となった。
ソ連は対抗して、その占領国家への政策を「アメ」から「ムチ」へ切り替えた。西側へのショーウィンドウとして自由と民主主義の「アメ」を与えていたハンガリーとチェコでは、強引に共産党独裁政権を誕生させ(其々昭和二十二年五月と二十三年二月)、二十二年十月にはコミンフォルム(欧州での共産党統一的機関)を結成、二十三年四月にはベルリンを封鎖して、「ムチ」-締め付けを強化した(注9)。

 日本での占領政策はポツダム宣言に則り当初は非軍事化であり弱体化であったが、転換には連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーのやり方とGHQ(注10)内部での対立等が絡み合い、欧州とは時間差があった。弱体化の最たる現憲法は、米国が欧州復興計画の立ち上げに忙殺されていた二十二年五月に公布・施行された。

 マッカーサーの占領行政は矛盾に満ちていたが、彼を独裁者で米国陸軍元帥よりも連合国軍最高司令官を誇りとして、それを踏み台に二十三年と二十七年の大統領選挙でその椅子を狙った野心家と観れば、矛盾はない。
彼は現憲法を最大の実績として誇り、米本国で検討が始まった日本の軍備には否定的であり、「赤化」に対しても極めて楽観的であった(注11)。その野心の踏み台を崩した北朝鮮・中国を徹底的に叩く-全面戦争も辞さなかった-彼の主張にも矛盾はなかった。
彼は支配したメディアを巧みに使い連合軍最高司令官の名で、自分の意向である軍備反対を米本国へ伝えたりした。それは対立候補になるトルーマン大統領に反旗を翻すと看られる危険な賭けであった。

 全面的転換への切っ掛けは、欧州復興計画を企画立案したジョージ・F・ケナンの来日があった。
ケナンは、弱体化政策は欧州と同様に日本を「共産化」へ導いていると判断して、その対策案の検証と本国国務省と対立している問題のマッカーサーとの協力関係構築の為に来日した。ロイヤル米陸軍長官はケナンが日本へ出発する前の二月二十五日に陸軍省作戦計画局に対して、日本の軍備計画を検討するように指示した。
 ケナンは二十三年三月初めにマッカーサーと打合せして対立を解き、政策の転換でほぼ一致した。ここが占領政策の転換点で、これ以前を「占領前期」と、以降を「占領後期」と分けて呼ぶ事にする。
この時期に中共が政権を奪取する事は確実になった。

 ケナンは帰国後に早速、「非軍事化」とポツダム宣言に書かれていない「民主化」に名を借りた「弱体化」の占領前期政策から、アジアでの強い日本の復興、独立と指導者追放の緩和・停止、警察力・軍事力強化、米国軍の駐留縮小と沖縄などでの必要最小限の維持、非懲罰的講和条約の遠くない将来での締結等を含んだ政策案を作り、それは三月二十五日に国家安全保障会議(NSC)に出された。案は審議後に大統領の決裁を受けて十一月にはGHQにその指令が送付され、十二月から翌年二十四年初めにかけて順次実施された。
 マッカーサーは、良いとこだけを先取りした。ソ連と民政局の反対を斥けて五月に旧海軍を主体とした海上保安庁が発足し、七月には公務員の争議行為禁止政令が出され、十二月には、GHQの中で「弱体化」や現憲法草案作り等を推進したチャールズ・L・ケーディス民生局次長を外し、また東京裁判も終了させた。
この転換を「逆コース」と否定的に呼ぶ論があるが、それは「日本弱体化は正しい」とする倒錯した論である。

 昭和二十五年六月に起きた朝鮮戦争が全面的な転換への最後の一押しをした。
北朝鮮の侵攻でマッカーサーが誇った実績も目指した「日本を東洋のスイス(注12)」も完璧に打ち砕かれた。日本への波及で一刻の猶予もなくなった軍備を、それでも軍隊とは言わずに「国家警察予備隊」(注13)と称して創設を命じた。予備隊は旧軍関係者の手で作られて彼等が部隊の中枢を占めた軍そのものであったにも拘らず、憲法を改正せずに予備隊は作られた。
 又戦争と連動した「赤化」を恐れたGHQは「赤化追放」(注13)の指令を出し、新聞・放送、官公労、民間主要産業の全産業で順次実施されたが、唯一大学教員だけは学生による反対運動で実施出来なかった。追放された「赤化」の数は一万二千人余に達したが、それは四年十か月の占領でマッカーサーが建てた「民主化」の金字塔にして、反共闘士としての武勲でもあった。
 対照的に八月には約一万人の公職追放解除を行い、十月には約三千人の旧軍人の追放解除も行って警察予備隊の中堅指揮官を充実させ、併せて日本復興・強化の為の指導者を復帰させた。
このほぼ同数の追放と復帰での入れ替えが転換の象徴であり、前期占領政策の利得者が「逆コース」と呪う所以である。

 既に七十歳のマッカーサーは野心の縁を代わりに朝鮮戦争での勝利に賭けた。しかしソ連・北朝鮮の攻勢を誤り、北朝鮮軍の意図を誤り、中国軍の参戦も見誤った。終には中国満州への攻撃を公然と主張して停戦を目論んでいたトルーマンに二十六年四月十一日に解任され、十五日早朝にあたふたと帰国して二度と日本の土を踏むことはなかった。
 五ヶ月後のサンフランシスコ講和会議の時にマッカーサーは大統領選挙指名獲得の為にトルーマンと闘う反共の闘士を演じて、全米を演説して回っていた。しかし翌二十七年の共和党大統領候補指名選挙は二十三年に続いて惨敗に終わった。

 マーシャルプランで「赤化」を食い止めて冷戦だった欧州に較べ、アジアではこの様に朝鮮半島を戦場とする熱い戦争を演じてそれは日本にも迫る勢いであったが、日本を基地とした米国国連軍と旧日本軍の協力により押し戻して波及を防いだ。
これは戦前日本が想定した満州と朝鮮半島がソ連の支配下に入る最悪の周辺事態であり、米国と日本が集団的に防衛をして「赤化」を食い止めたのだ。
 ここに至って米国はソ連と「赤化」の侵略に対抗する砦としての日本の重要性を確認し、マッカーサーはそれをやっと認識した。

 翌二十六年九月にサンフランシスコで講和会議が開かれたが、中国と韓国は戦勝国としての参加を要求して当然だが招請されなかった。韓国はその腹いせに翌二十七年一月に朝鮮戦争中であり日本が独立直前である弱みに付け込んで竹島を略奪し、中国は二十年後の共同声明で、その恨みを晴らした。戦勝国に拘る両国人の骨髄に徹した怨念と、それを晴らす為の朝鮮人の癇癪と支那人の執念深さの違いが際立った。
講和はソ連等を除いた主な非共産圏諸国との間で調印され国会承認後の二十七年四月に発効して、日本は主権を回復-独立した。だから講和条約には役割を終えたポツダム宣言の文言は無かった。

 この様に講和への途は、米国の前期の弱体化政策から、「赤化」へ対抗して復興・強化の一八〇度も大転換した後期の「元の途」-それは戦前に日本が取った満州・朝鮮政策に戻り、朝鮮戦争の修羅場をくぐり抜けて確かな歩みとして講和条約に辿り着いた、紆余曲折なんて言葉では表せない真に険しい道程であった。
 占領前期から首相を三度務めて講和を達成し皇室を守った吉田茂は、正に「臣」の指導者であった。その吉田は、戦禍と敗戦を受け軍備も丸裸にされた挙句に「やっとわかった」からと米国-ジョン・F・ダレス(注15)から軍備を求められて、諧謔で意趣返しとみられる対応をした。それはそれで胸がすく思いであったろうが、復興を理由に独立国として当然の自主憲法制定と軍備を逃避した事を、吉田は晩年になって後悔した。復興が経済優先とすり替えられて金一辺倒に、軍備拒否が「タダ乗り」になって倫理崩壊に至る事に気がついたからであろう。実際に、それが三島の憂慮となり共同声明に見られる歴史観欠如に繋がった。
 この欠如に付け込んで、己の統治正統性を維持する為にポツダム宣言を生き返らせ戦勝国面して日本の近現代史の改竄を試みた中共がそこにいた。

 講話へ至る歴史を改竄する例としては「逆コース」に留まらず、今もマッカーサーの占領行政を「占領政策」と恰もマッカーサーが占領政策の全権者の如く扱ったり、米国或いは連合国の温情で日本は講和に至ったと「騙る」「歴史専門家」と称する歴史改竄者が跋扈している。
マッカーサーが帰国した直後の米国議会での彼の証言を持って日本は侵略したのではなく自衛戦争だと主張する人もいるが、そのマッカーサーは現憲法制定の張本人であり、朝鮮戦争後でも現憲法の不備を正そうともしなかった占領軍最高司令官であった事を忘れてはならない。
次回第4回は最後で、中共との闘いが歴史認識戦争の本質である事を述べたい。



注6 ヴェノナ文書は、ルーズベルト政権中枢内で行なわれたソ連のスパイ工作活動を明らかにした。
注7 天皇陛下に意見や最新情勢を奏上した近衛文麿上奏文、昭和二十年二月十四日付、国立国会図書館近衛文麿関係文書より
注8 「ヴェノナ 解読されたソ連の暗号とスパイ活動」2010年2月12日発行 ジョン・アール・へインズ、ハーヴェイ・クレア、中西輝政監訳、PHP研究所
注9 両国に対する締め付けは、1956年のハンガリー動乱や1968年のソ連軍のチェコ侵略に至った。
注10 GHQ:連合国軍最高司令官総司令部
注11 朝鮮戦争は昭和25年6月25日に北朝鮮軍による大韓民国への侵攻で始まった。マッカーサーは来日中だった講和問題特使ジョン・F・ダレスに、「(北朝鮮の行動は)単なる威力偵察でないか(攻撃は全面的でない)」、「ソ連は背後にはない」等と語った。(「吉田茂の軍事顧問辰巳栄一」より
注12 昭和24年2月に記者会見で発言(片岡鉄哉、「日本永久占領」1999年6月20日 講談社
注13 英語原名はNational Police Reserveであり、その名の通り警察の予備隊であった。
注14 レッドパージ、赤狩りと呼ばれた。同時期米国でも行われ「マッカシ―旋風」と呼ばれた。
朝鮮戦争直前の5月30日に警備の米軍兵士が共産主義者に襲われたを皇居前広場事件を受けて6月6日に日本共産党幹部24名の公職追放を行ったが、朝鮮戦争後の大規模な公職追放とは原因からして性格を異にする。
注15 当時は国務長官顧問(講和担当)、1953年アイゼンハワー大統領の下で国務長官に就任

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中共が仕掛ける歴史認識戦争に克つ   第4回

中共が仕掛ける歴史認識戦争に克つ
                                          
         第四回:中共史観との闘い 

 何故中国歴史認識戦争を日本に仕掛けるのか。利の無い争いはしない支那人が「戦争」をするのは、その支那を独裁統治する中共の利が理由である。

 中共は支那を独裁し軍隊までもその支配下に持つ一大私党である。その統治正統性は、「日本の侵略と闘って勝利し、支那を解放した偉大な中共」とする歴史観中共史観)で担保される。この史観の根幹を成す「侵略」と「戦勝」に「残虐」が加味されて共同声明の歴史観になった。この根幹を守る為に日本の近現代史改竄の核心は、己の「戦勝」と対をなす日本を中国に対して敗戦国と認識させる点にあった。

 こんな歴史観を大胆にも共同声明に埋め込んだ中国であるが、日本にも「日中友好」を掲げてこの史観を受け入れる人達がいた。
例えば、「侵略と虐殺」を受け入れれば関係は改善すると言う人達がいる。侵略をした欧米諸国に賠償を請求したとか謝罪を求めた等の類や、だから関係が悪いとも聞いた事がない。中共史観と関係がなければどんな侵略も問題とはならないからだ。
 或いは「共同声明の歴史観が、中国が求める歴史認識である」とか、「共同声明の原則とはその歴史観である」と中国は認めていないのだから、拙論を中国への言い掛かりと批判する人も出るだろう。しかし何かに付けて「侵略」と「残虐」を持ち出し、それを否定する者に対しては「牛刀」を使うが如くに常軌を逸した反発をした中国の次の振舞いを顧みれば、言掛かりとは決して言えない。
 「侵略」では時の宮沢官房長官にねじ込んで歴史教科書検定に近隣諸国配慮を入れさせ(五十七年)、「残虐」では「南京虐殺記念館」まで建て(五十七年)、宮中晩餐会の席で国家主席が日本人の歴史認識不足を非難する無礼をした(平成十年)。最近では一市長の「南京虐殺」否定発言に国を挙げて児戯に等しい反発をした。
中国がハッキリ言わないから問題点が露にならないのだが、そう言ってしまっては、田中と大平を酔わせた中共の「魔術」がばれて己の弱みを晒すからだ。

 中共は魔術師となって「自分では言わずに、相手に思わせて認識させ、行動させる」巧妙な手口で、「侵略と残虐はあった」と一時は思わせ、それを認識させようとしたのだが、そのネタを明かされてしまったのが今現在である。いとも簡単に中共史観を受け容れた田中・大平と、認めなかった我々のしぶとさの落差に中共も戸惑っているであろう。 
こう視て来ると、中共史観が中国との友好の障害である事が判る。

 又日本には中共史観を日本化して歴史を語る専門家がいる。ソ連と「赤化」の脅威を恰も無かった如くに書いて講和条約を無視するか単なる日本が再独立した一過程と矮小化したり、占領政策の転換を無視して前期の弱体化政策だけを取り上げて今日の繁栄に繋げる論(注16)や、日中共同声明を以て国交が「正常化」して戦後の清算が終わったり等とする、歴史を改竄する人達である。
 この専門家は悪化した「友好」の原因をはっきり言わないし、論理が破綻しているから論争からは逃げて象牙の塔に立て籠もって只管「日中友好」の看板を掲げる人達である。
平成二十二年一月に発表された国家レベルの「日中歴史共同研究」如きは、三部構成の近現代史での結論となる最後の「第三部-戦後史」をすっぽりと省いた。破綻した「日中友好」に固執する余りに、逃避せざるを得なかった「専門家」の所行でない事を祈りたい。

 政治家が唱える中国・南北朝鮮と運命を共同にする「東アジア共同体」や、「日米中正三角形」、「基地のない沖縄」等は、この中共史観の下で出来る空論である。
この歴史観を持つ人は当然だが、日本を敵視した旧ソ連・ロシア、中国、朝鮮両国とは今も親和性が良い。

 この中共史観に敢然と闘われた方々を特記したい。
昭和六十三年に国会の場で「日本の侵略」を否定した奥野誠亮国土庁長官、平成六年にメディアの場-毎日新聞インタビューで「南京虐殺はでっち上げだ」と答えた永野茂門法相と平成十七年に「南京虐殺の証拠写真」を検証してその捏造を証明して本を出版した東中野修道教授、平成二十年には論壇の場-アパ論文で「日本は侵略国家ではなかった」と書いた田母神俊雄航空幕僚長、等の方々が嚆矢を放たれ、それは今も二の矢三の矢と続いている。

 本論は他国‐中国の建国伝説である中共史観にケチをつける野暮ではあるが、それが悪者と名指す日本との友好には明らかに障害である。友好を求めるのであれば中国は先ず中共史観を捨てる事であり、我々は友好を妨害するそれを捨てなさいと助言する事である。
日本の近現代史改竄の企みを明かされた魔術師中共は、次は残る「戦勝国」を使って中共史観を守ろうとするであろうが、その時は「中国とは戦争をした事もないし、だから中国は戦勝国でない!」と、ハッキリ言うべきである。
 日中共同声明からみた歴史認識は、中国が中共の虚構の統治正統性の上に立つ国であり、その虚構を維持する為に日本にとっては無理無体な事を強要される事であり、それを言葉だけでなく力でも拒否できる準備をしなさいと訓えている。

注16 「米国の日本占領政策」昭和60年2月25日発行、中央公論社 五百旗頭真

参考文献
‐『外交証言録 沖縄返還・日中国交正常化・日米「密約」』、栗山尚一著、2010年8月25日 岩波書店発行
‐外務省公開文書 2011-0720
‐「台湾問題についての日本の立場-日中共同声明第三項の意味-」栗山尚一(元駐米大使)『霞関会会報』
2007年10月号
‐データベース『世界と日本』田中総理・周恩来総理会談記録、大平外務大臣・姫鵬飛外交部長会談(要録)
 東京大学東洋文化研究所 田中明彦研究室
‐児島襄1987年8月10日「日本占領 (1)、(2)、(3)」 文藝春秋
‐ジョージ・F・ケナン回顧録 –対ソ外交に生きて (George F.Kennan Memoirs 1925-1950)1973年12月20日、ジョージ・F・ケナン、訳者:清水俊雄 読売新聞社
‐「歴史に消えた参謀 吉田茂の軍事顧問 辰巳栄一」平成23年7月30日 湯浅博 産経新聞出版
‐「日本永久占領」片岡鉄哉1999年6月20日、講談社

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