日本の再生に向けて

戦後教育の洗脳から脱却する為に、近現代史を学ぼう

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東電再生へ

 マスコミは最近はTPPを話題にして、震災も、防災も、原発も余り言わなくなった。

 東日本大震災を、「単に大きな地震と津波が来ました、怖かtったですね、大きな被害でしたね、被災者は大変だったですね」と言った幼児的な感想に終わらせてはいけない。
震災で見えたのは、日本の防災であり、非常事態を想定していない国家体制の問題である。8ヵ月が経った今からでも議論する事は遅いが、この点ばかりは今すぐ始めるべきである。決して早すぎたり時期尚早ではない。

 TPPの問題も大事であるが、自由貿易の原則から日本は参加に賛成するが、次の理由で参加するのは今反対である:
  ‐民主党政権には国際交渉ごとを任せられない。特にアメリカとの同盟関係を破壊する恐れがある。
    (沖縄普天間で、民主党の幼稚性は証明済み)
  ‐優先順位が違う
   日本は復興・防災が優先する
  ‐民主党政権はアメリカと今信頼関係がない
   TPPと言っても実質はアメリカという巨人と後はちっちゃな参加国。
   そのアメリカと腹を割って話すことでTPP交渉は進展する。
   しかし民主党には全く信頼関係がないどころか不信関係があるだけ。
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ここまで前置きで以下は引用文。
震災復興・防災に関して、東電福島、戦後体制の欠陥、を震災直後に出した「東電再生へ‐木川田路線との決別が必須)(日本時事評論)に掲載された一文を引用する。
震災直後に書いているが、その内容は今も通じると思う:

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(日本時事評論 平成23年6月17日 第1730号)

    震災発生時に中国にいた東電会長


    東電再生へ‐木川田路線との決別が必須(1)     
                             細谷 清 (日本近現代史研究会事務局長)

 ーーーー

 東京電力(以下、東電)の福島第一原子力発電所事故の終息の見通しは立たず、影響は他の原子力発電所にも及んで電力供給の深刻な問題が浮び上ってきた。今後の電力政策は、わが国の命運を大きく左右するものであり、戦後に確立した電力九社体制の見直しや発電と送電の分離などが俎上に上ってきた。
その中でも重要なのは東電の再生だが、単なる組織改革ではなく、企業体質、企業文化にまで踏み込んだ改革が必要ではないか。社長・会長在任当時は理想的な経営者と言われた木川田一隆に焦点をあてた再生への提言を紹介する。(編集部)
ーーーー


中国に肩入れ
 東京電力(東電)福島原子力発電所を襲った巨大地震が発生した時に、会長の勝俣恒久は北京にいた。勝俣を団長とする約二十人の「愛華訪中団」一行は、6日から中国入りして、上海、南京を経由し、翌日の帰国を前に電力関係の要人に面会に行く途中のバスの中で地震を知った。一行には多くにマスコミ関係者が参加していた。
この旅行を主催した月刊誌『自由』の元発行人である石原萌記(86)は、この旅行の切っ掛けを「私は東電の社長だった故木川田一隆先生との縁を通じて、総務担当だった平岩外四先生(元東電会長で、元経団連会長)と知り合い、以来彼が亡くなるまでの五十三年間、縁戚のように深い付き合いをしてきました。彼(平岩)の助言で始まったのがこの訪中ツアーです。私以外の参加者の負担金は各五万円。実費は東電が持つ。他の参加者の不足分は私が何とかして集めるという形でやっています」と、語っている。
木川田が取り持った縁で、現役の会長が団長を務めてマスコミ一行も引き連れて中国で観光旅行をしていたのは、象徴的である。

 木川田一隆を、企業の社会的責任を訴え政治献金を止める等と理想の実現に努めた偉大な経済人、と評価する人も少なくない。しかし木川田は、「愛華訪中団」の切っ掛けどころか、「日中国交回復」を掲げて東電の会長として訪中そのものの先駆けをなした人である。後進が「友好」どころか「愛華」にまで発展させる程に真面目に遺志を継いだと、草葉の陰で喜んでいるだろうか。

国交回復を促進
 木川田は昭和46年(1971年)11月に中国を訪問した。10月25日に中国の国連加盟が決まった直後であり、中国が国際舞台に躍り出た時期である。11月15日には国連総会で初めて演説をして、当時の佐藤栄作首相が率いる自民党政府を名指しで非難した。それにも拘わらず、日本では日中国交回復が叫ばれていた。木川田はこの年の4月に社長を水野久男に譲って会長に就任し、日中国交回復を唱えた。そして東京経済人訪中団を組織して11月に訪中し、11月18日には周恩来首相とまで会見した。
 日中友好条約が結ばれたのが、木川田の訪問から十ヶ月後であるから、木川田が国交回復の種を撒いたとも言われる所以(ゆえん)である。訪中反対の意見を押し切って出掛けた木川田は、このように政治的な嗅覚も優れていた。
会見で周恩来は、木川田が唱える「協調して健全な競争をする統制資本主義」を批判し、当時の佐藤内閣も批判しながら、「体制は違っても両国の平和共存は可能であり、日本は軍国主義の道を歩むことなく、独立、平和、中立、民主、繁栄の五つの条件で進むことを希望する」と言った。
これに対し訪中団は帰国後の記者会見で、「中国の立場からすればある程度批判することはやむを得ず」、「訪中団は経済人であって、又立場の違いがあり、周首相の批判には何もいわなかった」、と、団長の東海林武雄が語った。
 自国の首相を批判されても何ら反論せず、政治の場と判って出掛けながら、日本の政治体制についての話しは経済人だから言って逃げ、相手に日本の進むべき道を唯々諾々と説教されて来た「友好を求める」人達の語りは、奇妙である。日本を愛し、日本人としての誇りを持っていたのだろうか。
 持論の統制資本主義を面と向かって批判された木川田が、中国側に反論したとは聞かない。そもそも国家統制を嫌ったはずの木川田が、一党を以て国を独裁する中国へ出掛けて友好を語ったのは、独占独裁を持つ者同士のその親和性の故であろうか。

東電の基礎
 明治32年に生まれた木川田一隆の経歴を尋ねると、時代のちょっと先を器用に歩いた人と言える。
陸軍士官学校を目指したのも時代の趨勢であるし、その試験を二度落ちて山形高校から東大に入り、東大では新人会に入ったり、セツルメント運動(貧民救済運動)に首を突っ込んだり、社会主義・共産主義に染まったのもまた然りである。当時の青年のちょっと先を歩んだ。
 ドイツ共産党創始者で革命家のローザ・ルクセンブルクの著書を愛読し、終戦後を「日本民族にとって人間解放の時期」と解釈し、放任資本主義と統制資本主義、「企業の社会性の尊重」、「企業の社会的な意義」と言った言葉に、彼の理想とする社会は共産的なものであったのではないか。
 木川田のそう言った時代のちょっと先を見る点で特筆される事績は、この日中友好の他に、戦後の九電力体制の構築、原子力発電所の建設、企業の政治献金廃止であろう。

 戦前の一社による発電・送電と地域非独占の配電会社の電力供給体制を、GHQ(占領軍総司令部)の民主化路線を盾に、九社による発電・送電・配電地域独占の体制を企画・推進したのは木川田である。
GHQ を相手に、一社独占の発電と送電を分割するのだから民主化であり、地域独占とはしているが九電力会社間で秩序ある競争になる、等の理屈で通したのだ。こうして東京の一配電会社であった東京電燈を発電から家庭までの配電を扱う世界一巨大な電力会社にする枠組みを作ったのだ。
(日本時事評論 第1730号 平成23年6月17日 )
                                                (2に続く)
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