日本の再生に向けて

戦後教育の洗脳から脱却する為に、近現代史を学ぼう

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東電再生へ (2)

(日本時事評論新聞 第1731号 平成23年7月1日)
東電再生へ‐木川田路線との決別が必須(2)
                                細谷 清 (日本近現代史研究会事務局長)

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 福島原子力発電所の建設を決定し、運転開始を見届けて社長を退任した木川田一隆氏。実力会長となり、世界一の民間電力会社への枠組みを作ったが、政・官やマスコミをも抱き込み、東電の権益を拡大していったという側面をも否定できない。(編集部)
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福島原電の運転開始
 原子力発電では、社長在任中に木川田は、炉型と二か所の立地場所を決定した。
社長就任直後の昭和36年8月に福島県の双葉町・大熊町にまたがる地区に、昭和44年9月には新潟県の柏崎刈羽地区に、それぞれ原子力発電所を建設することを決めた。両地区とも東京電力管内ではなく、東北電力管内である。
福島で言えば、その場所は彼の生家から南南東に約百キロ弱の場所にある。この立地は各種の調査と地元の意向を尊重して決められたと言っているが、地元福島の開発に「裨益(ひえき)」したいと言った木川田の決定に、地元へ恩返しをしたい気持ちが無かったとは言えないであろう。

 昭和41年12月には沸騰水型原子炉の採用を決めてGE社と契約した。立地決定から十年後の昭和46年3月26日に、東電初の原子力発電所である福島一号機が営業運転を開始した。
木川田はこの運転開始を花道とするかのように、二か月後の5月31日に、前に述べたように社長職を水野に譲って会長に就任した。
同じ頃に関西電力の美浜原子力発電所一号機も運転を開始し、商用原子力発電は発展期を迎えた。
この会長就任直後の11月に中国を訪問して国交回復を後押ししたのは述べた通りで、この時期が木川田の絶頂期であった。

個人献金に切替
 昭和48年10月のアラブ側の攻撃で始まった第四次中東戦争では、日本は親イスラエル国と見なされて、原油の輸出制限と価格高騰に見舞われた。東電は電気料金の大幅な値上げを余儀なくされるが、当時の田中角栄内閣の金権体質と共に、翌年7月7日に行われた参議院選挙は田中の金権選挙と言われ、東電などの企業献金がやり玉に挙げられ、値上げに対し不払い運動を受けた。
 東電は昭和49年8月13日の役員会で、政治献金の取り止めを決定した。その決定を水野社長(当時)自らが献金反対運動の先鋒であった市川房枝参議院議員の事務所に出向いて伝える程の事をした。この献金の取り止めは木川田が指導したとされ、その後のトップが献金を復活させたように今誤解されている。

 しかし、企業による献金は止めたが、代わりに課長以上の幹部の個人による献金を勧めたのだから、木川田は献金を止めてはいない。
取り止めを発表した翌日の本社部長会議で課長以上の管理職に呼び掛けて、献金窓口であるの国民協会の個人会員になることを勧めた。そして木川田はこの呼び掛けを徹底するかのように新聞記者に、企業としての一ヶ月百万円の献金を打ち切る替りに個人会員でその額を目標にしていると語って、全国紙の記事にした。
木川田は当時国民協会の理事をしており、実力会長に入れと勧誘されて断れる幹部社員なんていたであろうか。困った社員もいたのではないか。

 木川田は叙勲を拒み続け、この三年後に七十七歳で亡くなった。

総理の政治的出自
 余談だが、管直人がこの昭和49年の参議院選挙で市川房枝を応援したのが政界進出の切っ掛けであったことは、広く知られている。市川は全国区で二位当選を果たした。
もしかしてこの企業献金廃止の東電とのやり取りに若い管直人が使われ、東電に出向いたのではないかと思って調べてみたが、彼は献金廃止のニュースを遊びに行っていた屋久島で知ったので、関与はしていないようだ。

 余談をもう一つ。市川房枝とは同志だと思っていたが、それはが言っているだけで市川と距離を置いていた事が判った。市川はその著書で、管直人が出馬した二つの選挙の応援を断った理由について次のように書いている。
「(昭和49年の参議院議員選挙の際に市川の選挙事務所事務長だった)氏は昨年(昭和51年)12月5日の衆議院選挙の際、東京都第七区から無所属候補として立候補した。このときは立候補をしてから私の応援を求めて来た。彼等の意図は理解するが、衆議院での無所属は賛成出来ないのでそのとき推薦応援はしなかった。然し50万円のカンパと、私の秘書、センターの職員が手伝えるように配慮し、『自力で闘いなさい』といった。」
 「ところが選挙が始まると私の名前をいたる所で使い、私の選挙の際カンパをくれた人たちの名簿を持っていたらしく、その人達にカンパや選挙運動への協力を要請強要したらしく、私が主張し、実践してきた理想選挙と大分異なっていた。」
「そして今年(昭和52年)の参議院選挙では政党(社会市民連合)から立候補したので、私の主義と違うのでこれも推薦も応援もしない。」

 市川は、市川の名前や応援者名簿を勝手に利用したの抜け目と原則の無さを批判している。市川の主義と全く違っていた事を示す話である。菅が企業献金の取り止めに全く関与してないと確信した。

手段の正当化
 戦後の電力地域独占体制の確立、原子力発電所の立地場所決定と原子力発電所の建設、原子力発電のBWR炉型の選択、政党への献金を企業から個人へ切換え、日中国交回復と日中友好の促進と、木川田の行った事は今の東電の枠組みそのものである。
東電はこの枠組みで、地域独占会社として世界一の民間電力会社に発展した。エネルギーを握った者は強い証(あかし)である。
 東電の社会的使命は原子力発電所の建設であると決めると、地域管轄外だろうが、地方自治体から監督官庁である経済産業省をも抱き込み、そして、マスコミ対策まで、社会的に意義あるものとし、その為の手段をも正当化した。
 木川田が構築した事業の仕組みとは、地域独占による確実な収益確保、国家権力の排除と利用の為の政治献金等による手なずけ(官僚主権でなく民間主権)、「社会的使命」と言う曖昧な言葉を使って行う自由な企業活動、と言える。
                                      (日本時事評論新聞 第1731号 平成23年7月1日)
                                                         (3に続く)
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