日本の再生に向けて

戦後教育の洗脳から脱却する為に、近現代史を学ぼう

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中共が仕掛ける歴史認識戦争に克つ   第2回

中共が仕掛ける歴史認識戦争に克つ

                                          
     第二回:虚構で出来た共同声明の歴史観 

 日中共同声明には、「中国は日本に対して戦勝国で、日本は侵略した野蛮な敗戦国」とする歴史観が埋め込まれていたが、この歴史観は虚構で出来ている。昭和47年当時ではこんな嘘の歴史観に我々は疑問も批判も挟まなかった。

 この歴史観は幾つもの虚構で出来ている。
先ず、中国が日本と戦争をしたとする虚構である。支那における戦闘状態は一九四五年八月を以て終了し、中国はその後の一九四九年十月に中国は建国された。
戦争(戦闘状態)をした清とは下関条約で、中華民国とは日華平和条約で決着済みとするのは理がある。

 次に、一九四五年九月の降伏文書でその役割を終えたカイロ・ポツダム両宣言を生き返えらせて中国と関係づけ、講和条約を無視した虚構だ。ポツダム宣言は敵対する連合国が日本に対して降伏を求めた最後通牒で、原爆までも使って受諾を強要した曰く因縁付きの宣言で、日本は民族生き残りと敗戦後の「耐え難きを耐え忍ぶ」覚悟で、不承不承受けた。
降伏調印文書にポツダム宣言はあるが、後述するが米国は両宣言を否定する政策にその後は転換したから講和条約にも日華平和条約にも両宣言は一言もなかった。

 そして、最後はカイロ宣言に書かれた「侵略国日本」、「野蛮な日本」の嘘である。
この四十年間に、侵略については日清戦争からの「五十年戦争論」、「盧溝橋事件日本軍仕掛け説」が出され、「野蛮-残虐」については「南京虐殺」等が次々と出来した。その為に研究が進んで詳しくはそれぞれの成果に譲るが、「日本の侵略と残虐」を否定する研究結果であった。

中国が求めた「友好」とは、この虚構と嘘で出来た歴史観を日本が認める事であった。「友好」に努めれば努める程にお互いが嫌悪した原因はここに有った。
詰り我々は、最初から論理的に破綻した「日中友好」を無駄に四十年間も続けたのであり、最近の世論調査は単にその論理的帰結を示しただけである。

 田中大平は、こんな歴史観-それは後述するが日本の近現代史を改竄する歴史観-を認めて署名したのだろうか。否、正しい歴史観を持ってなかったから出来たとしか思えない。
田中は帰国直後の記者会見で共同声明を、「お互いに内政不干渉、侵略しない、主権独立等を金科玉条として、世界平和のため、アジアの平和のため、両国の友好親善を続ける事を大前提とした。」と既に日本の歴史が侵されているのに自賛した。一記者に「それでは安保条約極東条項は不要であろう」と突っ込まれて言葉に窮し、「安保の台湾条項を学問的に論文で書くなら別だが、日中間の話し合いがある、そうでなければ共同声明は出来なかった。」と、共同声明に理はないが情‐友好で出来たと、歴史観を持たずに情だけで外交交渉をした田中らしい発言をした。

 一方の大平は、帰国直後の新聞紙上座談会でポツダム宣言の発案者を問われて、「日本とか中国とかはっきりした形で追及しないでほしい。双方が合意したという事で察してほしい。(しばらくしてから)日本側の提案で入ったものだ。」と答えた(注5)。「日本側から提案した」事にして、元々は中国が言い出し大平が「積極的」に応えた事を交渉後に隠したのは、裏を返せば交渉時に歴史を軽視した事の証しである。
当時でもこの史観を疑う人達がいた。交渉の最前線にいた外務省の大勢は高島条約局長の理であったし、国際法学者であった田村幸策教授は、ポツダム宣言と講和条約の関係から共同声明の正当性に疑義を投じた。
他にも居ただろうが、こんな歴史観を持った共同声明に乾杯した田中大平に、多くのマスメディアと大学等の歴史観形成機関の専門家は、苦言でなく賞賛した。

 当時の世相は、中国との国交樹立に「乗り遅れる」と浮き足立ち、取分け経済界の重鎮は「北京詣で」を競った。彼らの本音は「金儲けに乗り遅れるな」であり、金に取分け執心した田中が首相としてそこに居た。
三島由紀夫は共同声明から遡る事二年前に当時の世相を、「無機質な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、或る経済大国が極東の一角に残るのであろう。それでもいいと思っている人たちと、私は口をきく気にもなれない。」と評して、金(かね)一辺倒の行末を案じたが、共同声明で見せた姿が正にそのものであった。

 歴史観を持たず或いは間違った歴史観で日中共同声明は作られた。では終戦・敗戦から日本が再び独り立ち出来る講和に至った戦後史はどのような歩みであったのだろうか。次回第3回で論じる。

注5 読売新聞昭和47年10月1日14版、対談相手は当時国際法の第一人者と言われた寺沢一東大教授
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