日本の再生に向けて

戦後教育の洗脳から脱却する為に、近現代史を学ぼう

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中共が仕掛ける歴史認識戦争に克つ   第3回

中共が仕掛ける歴史認識戦争に克つ

                                          
    第三回:サンフランシスコ講和条約に至った途 

 日中共同声明はまるでパンドラの箱を開けたかの様に、その後は1894年の日清戦争からを日本の侵略とした「50年侵略戦争論」、「南京虐殺」、「従軍慰安婦」、「三光作戦」、「731部隊生体実験」等の偽歴史が飛び出し「日本の侵略と残虐」を歴史認識させようとする中国の工作は猖獗を極めた。
その為にこの四十年間で「侵略」と「残虐」は研究され論破されたが、ポツダム宣言と講和条約の関係については、「占領」を忌避した所為か等閑にされた感がある。
敗戦から講和に至った途を平坦な一本道と誤解している人もいるが、そうではない。


 日本の近現代史は、アジア各国が植民地化される中で近代国家として国際社会に出て、生存の為に大国ロシアと清と戦争までして闘い、加えて共産主義と闘った歴史である。その共産主義国ソ連と同盟関係を結び共産主義との共存を図った蒋介石中華民国と、親ソ連・容共・排日政策の米国フランクリン・D・ルーズベルト大統領(注6)によって、戦争に追い込まれ、そして敗れた。

 近衛文麿は終戦直前に「国体護持の建前より最も憂ふべきは敗戰よりも敗戰に伴ふて起ることあるべき共産革命に御候」(注7)と述べたが、当時の指導者は敗戦による共産革命を最も恐れた。近衛が看破した通りに、終戦後はその共産革命‐「赤化」(共産化運動とそれへの同調)が満州から朝鮮半島を経て日本を襲い、一方は支那からインドシナを経てインドネシアにまで達した。
 日本軍が撤退した後の満州と日本国境にはソ連が侵攻して、満州では中共を援助し朝鮮半島では亡命政権を立てて、それぞれ共産主義国家の中国と北朝鮮を生んだ。対照的に中華民国蒋介石政府は、ソ連と不可侵条約を結んでいたにも拘わらず玉突きで台湾に追われた。
ソ連は日本との不可侵条約も終戦宣言もそして米国の警告も無視して、樺太、北方四島に侵攻して北海道の目と鼻の先まで迫り、日本本土の占領までを米国に要求した。国内は、占領軍が獄中の共産党員を釈放し活動を許したので「赤化」は俄然活発になった。

 スターリンと協力して戦後体制を構想していたルーズベルトは、ヤルタ会談から僅か二か月後-ドイツ降伏前の四月十二日に亡くなった。彼の死と後継者がヘンリー・A・ウォレスでなくハリー・S・トルーマンであった事は、ソ連以外の国‐特に日本にとり不幸中の幸いであった。
ウォレスは第三期ルーズベルト大統領の下で副大統領を務め、トルーマンと副大統領候補指名を争って敗れた人だ。トルーマンと組んだルーズベルトは、選挙戦に勝って亡くなる三か月前に四期目の大統領に就任したばかりで、任期を丸四年近くも残していた。
 最近判明したのは、ウォレスが米国でのソ連の諜報活動を暴いたヴェノナ文書に頻繁に登場する限りなく「赤化された」人(注8)で、日本にとっては最悪の副大統領候補者であった事だ。
もしもルーズベルトが延命し或いはウォレスが副大統領であったならば、日本は分断か共産主義国家であったろうし、今の繁栄が無かった。
ルーズベルトの死で彼の大統領就任(一九三三年)から続いたソ連との蜜月は終焉を迎えた。

 蜜月後の修羅場は先ず欧州で現れた。
ヤルタ協定直後からさえソ連は、ポーランド・フィンランド・ルーマニア・ブルガリア等の占領国で協定違反を繰り返して占領国に親ソ連的な政権樹立を図った。ルーズベルトはそんな時に亡くなった。
ドイツが五月六日に降伏し、国際連合の設立が六月二十六日に決まり、ポツダム宣言が七月二十六日に出された辺りまでは、蜜月期に既定の路線であった。米国がソ連の協定違反を当初は誤解が原因と考えて手を拱いている間に、ソ連は「赤化」を浸透させた。
二十一年三月五日のチャーチルの「鉄のカーテン」演説で関係悪化は公然となったが、始まりはこの様にずっと前のヤルタ協定直後からだ。
 二十二年三月にはトルーマンがソ連との協調路線の決別を議会で宣言し、五月には米国がドイツ復興を柱とした欧州復興計画(マーシャルプラン)を立ち上げた事で、悪化は決定的となった。
ソ連は対抗して、その占領国家への政策を「アメ」から「ムチ」へ切り替えた。西側へのショーウィンドウとして自由と民主主義の「アメ」を与えていたハンガリーとチェコでは、強引に共産党独裁政権を誕生させ(其々昭和二十二年五月と二十三年二月)、二十二年十月にはコミンフォルム(欧州での共産党統一的機関)を結成、二十三年四月にはベルリンを封鎖して、「ムチ」-締め付けを強化した(注9)。

 日本での占領政策はポツダム宣言に則り当初は非軍事化であり弱体化であったが、転換には連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーのやり方とGHQ(注10)内部での対立等が絡み合い、欧州とは時間差があった。弱体化の最たる現憲法は、米国が欧州復興計画の立ち上げに忙殺されていた二十二年五月に公布・施行された。

 マッカーサーの占領行政は矛盾に満ちていたが、彼を独裁者で米国陸軍元帥よりも連合国軍最高司令官を誇りとして、それを踏み台に二十三年と二十七年の大統領選挙でその椅子を狙った野心家と観れば、矛盾はない。
彼は現憲法を最大の実績として誇り、米本国で検討が始まった日本の軍備には否定的であり、「赤化」に対しても極めて楽観的であった(注11)。その野心の踏み台を崩した北朝鮮・中国を徹底的に叩く-全面戦争も辞さなかった-彼の主張にも矛盾はなかった。
彼は支配したメディアを巧みに使い連合軍最高司令官の名で、自分の意向である軍備反対を米本国へ伝えたりした。それは対立候補になるトルーマン大統領に反旗を翻すと看られる危険な賭けであった。

 全面的転換への切っ掛けは、欧州復興計画を企画立案したジョージ・F・ケナンの来日があった。
ケナンは、弱体化政策は欧州と同様に日本を「共産化」へ導いていると判断して、その対策案の検証と本国国務省と対立している問題のマッカーサーとの協力関係構築の為に来日した。ロイヤル米陸軍長官はケナンが日本へ出発する前の二月二十五日に陸軍省作戦計画局に対して、日本の軍備計画を検討するように指示した。
 ケナンは二十三年三月初めにマッカーサーと打合せして対立を解き、政策の転換でほぼ一致した。ここが占領政策の転換点で、これ以前を「占領前期」と、以降を「占領後期」と分けて呼ぶ事にする。
この時期に中共が政権を奪取する事は確実になった。

 ケナンは帰国後に早速、「非軍事化」とポツダム宣言に書かれていない「民主化」に名を借りた「弱体化」の占領前期政策から、アジアでの強い日本の復興、独立と指導者追放の緩和・停止、警察力・軍事力強化、米国軍の駐留縮小と沖縄などでの必要最小限の維持、非懲罰的講和条約の遠くない将来での締結等を含んだ政策案を作り、それは三月二十五日に国家安全保障会議(NSC)に出された。案は審議後に大統領の決裁を受けて十一月にはGHQにその指令が送付され、十二月から翌年二十四年初めにかけて順次実施された。
 マッカーサーは、良いとこだけを先取りした。ソ連と民政局の反対を斥けて五月に旧海軍を主体とした海上保安庁が発足し、七月には公務員の争議行為禁止政令が出され、十二月には、GHQの中で「弱体化」や現憲法草案作り等を推進したチャールズ・L・ケーディス民生局次長を外し、また東京裁判も終了させた。
この転換を「逆コース」と否定的に呼ぶ論があるが、それは「日本弱体化は正しい」とする倒錯した論である。

 昭和二十五年六月に起きた朝鮮戦争が全面的な転換への最後の一押しをした。
北朝鮮の侵攻でマッカーサーが誇った実績も目指した「日本を東洋のスイス(注12)」も完璧に打ち砕かれた。日本への波及で一刻の猶予もなくなった軍備を、それでも軍隊とは言わずに「国家警察予備隊」(注13)と称して創設を命じた。予備隊は旧軍関係者の手で作られて彼等が部隊の中枢を占めた軍そのものであったにも拘らず、憲法を改正せずに予備隊は作られた。
 又戦争と連動した「赤化」を恐れたGHQは「赤化追放」(注13)の指令を出し、新聞・放送、官公労、民間主要産業の全産業で順次実施されたが、唯一大学教員だけは学生による反対運動で実施出来なかった。追放された「赤化」の数は一万二千人余に達したが、それは四年十か月の占領でマッカーサーが建てた「民主化」の金字塔にして、反共闘士としての武勲でもあった。
 対照的に八月には約一万人の公職追放解除を行い、十月には約三千人の旧軍人の追放解除も行って警察予備隊の中堅指揮官を充実させ、併せて日本復興・強化の為の指導者を復帰させた。
このほぼ同数の追放と復帰での入れ替えが転換の象徴であり、前期占領政策の利得者が「逆コース」と呪う所以である。

 既に七十歳のマッカーサーは野心の縁を代わりに朝鮮戦争での勝利に賭けた。しかしソ連・北朝鮮の攻勢を誤り、北朝鮮軍の意図を誤り、中国軍の参戦も見誤った。終には中国満州への攻撃を公然と主張して停戦を目論んでいたトルーマンに二十六年四月十一日に解任され、十五日早朝にあたふたと帰国して二度と日本の土を踏むことはなかった。
 五ヶ月後のサンフランシスコ講和会議の時にマッカーサーは大統領選挙指名獲得の為にトルーマンと闘う反共の闘士を演じて、全米を演説して回っていた。しかし翌二十七年の共和党大統領候補指名選挙は二十三年に続いて惨敗に終わった。

 マーシャルプランで「赤化」を食い止めて冷戦だった欧州に較べ、アジアではこの様に朝鮮半島を戦場とする熱い戦争を演じてそれは日本にも迫る勢いであったが、日本を基地とした米国国連軍と旧日本軍の協力により押し戻して波及を防いだ。
これは戦前日本が想定した満州と朝鮮半島がソ連の支配下に入る最悪の周辺事態であり、米国と日本が集団的に防衛をして「赤化」を食い止めたのだ。
 ここに至って米国はソ連と「赤化」の侵略に対抗する砦としての日本の重要性を確認し、マッカーサーはそれをやっと認識した。

 翌二十六年九月にサンフランシスコで講和会議が開かれたが、中国と韓国は戦勝国としての参加を要求して当然だが招請されなかった。韓国はその腹いせに翌二十七年一月に朝鮮戦争中であり日本が独立直前である弱みに付け込んで竹島を略奪し、中国は二十年後の共同声明で、その恨みを晴らした。戦勝国に拘る両国人の骨髄に徹した怨念と、それを晴らす為の朝鮮人の癇癪と支那人の執念深さの違いが際立った。
講和はソ連等を除いた主な非共産圏諸国との間で調印され国会承認後の二十七年四月に発効して、日本は主権を回復-独立した。だから講和条約には役割を終えたポツダム宣言の文言は無かった。

 この様に講和への途は、米国の前期の弱体化政策から、「赤化」へ対抗して復興・強化の一八〇度も大転換した後期の「元の途」-それは戦前に日本が取った満州・朝鮮政策に戻り、朝鮮戦争の修羅場をくぐり抜けて確かな歩みとして講和条約に辿り着いた、紆余曲折なんて言葉では表せない真に険しい道程であった。
 占領前期から首相を三度務めて講和を達成し皇室を守った吉田茂は、正に「臣」の指導者であった。その吉田は、戦禍と敗戦を受け軍備も丸裸にされた挙句に「やっとわかった」からと米国-ジョン・F・ダレス(注15)から軍備を求められて、諧謔で意趣返しとみられる対応をした。それはそれで胸がすく思いであったろうが、復興を理由に独立国として当然の自主憲法制定と軍備を逃避した事を、吉田は晩年になって後悔した。復興が経済優先とすり替えられて金一辺倒に、軍備拒否が「タダ乗り」になって倫理崩壊に至る事に気がついたからであろう。実際に、それが三島の憂慮となり共同声明に見られる歴史観欠如に繋がった。
 この欠如に付け込んで、己の統治正統性を維持する為にポツダム宣言を生き返らせ戦勝国面して日本の近現代史の改竄を試みた中共がそこにいた。

 講話へ至る歴史を改竄する例としては「逆コース」に留まらず、今もマッカーサーの占領行政を「占領政策」と恰もマッカーサーが占領政策の全権者の如く扱ったり、米国或いは連合国の温情で日本は講和に至ったと「騙る」「歴史専門家」と称する歴史改竄者が跋扈している。
マッカーサーが帰国した直後の米国議会での彼の証言を持って日本は侵略したのではなく自衛戦争だと主張する人もいるが、そのマッカーサーは現憲法制定の張本人であり、朝鮮戦争後でも現憲法の不備を正そうともしなかった占領軍最高司令官であった事を忘れてはならない。
次回第4回は最後で、中共との闘いが歴史認識戦争の本質である事を述べたい。



注6 ヴェノナ文書は、ルーズベルト政権中枢内で行なわれたソ連のスパイ工作活動を明らかにした。
注7 天皇陛下に意見や最新情勢を奏上した近衛文麿上奏文、昭和二十年二月十四日付、国立国会図書館近衛文麿関係文書より
注8 「ヴェノナ 解読されたソ連の暗号とスパイ活動」2010年2月12日発行 ジョン・アール・へインズ、ハーヴェイ・クレア、中西輝政監訳、PHP研究所
注9 両国に対する締め付けは、1956年のハンガリー動乱や1968年のソ連軍のチェコ侵略に至った。
注10 GHQ:連合国軍最高司令官総司令部
注11 朝鮮戦争は昭和25年6月25日に北朝鮮軍による大韓民国への侵攻で始まった。マッカーサーは来日中だった講和問題特使ジョン・F・ダレスに、「(北朝鮮の行動は)単なる威力偵察でないか(攻撃は全面的でない)」、「ソ連は背後にはない」等と語った。(「吉田茂の軍事顧問辰巳栄一」より
注12 昭和24年2月に記者会見で発言(片岡鉄哉、「日本永久占領」1999年6月20日 講談社
注13 英語原名はNational Police Reserveであり、その名の通り警察の予備隊であった。
注14 レッドパージ、赤狩りと呼ばれた。同時期米国でも行われ「マッカシ―旋風」と呼ばれた。
朝鮮戦争直前の5月30日に警備の米軍兵士が共産主義者に襲われたを皇居前広場事件を受けて6月6日に日本共産党幹部24名の公職追放を行ったが、朝鮮戦争後の大規模な公職追放とは原因からして性格を異にする。
注15 当時は国務長官顧問(講和担当)、1953年アイゼンハワー大統領の下で国務長官に就任
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